夏が過ぎ、秋が来て、SixTONESとSnow ManのFCが出来た。
Sちゃんや何人かの友達が繋がらないFCサイトと格闘し、『繋がんねぇ!!!』とか『時間少しずらしてやってみようかな』なんてツイートしているのを読んでいたのが懐かしい。
この投稿で少し、と言いつつ長くなるけれど、私が今でも推しているアイドルの話をしようと思う。
その頃の私はというと、色々あって推しが芸能界から突然いなくなった虚無感や悲しさ、掌を返したように昨日まで応援していたはずのオタク達が一斉に袋叩きにしている怖さ、それに対する怒り、残されたメンバーの憔悴した姿を見て感じる無力さとやるせなさ、、そんないくつもの感情の連続パンチで押しつぶされそうになりながらも仕事に行き、生きるために食事をし、帰ったら最後に推しが出た歌番組の放送回を観ては泣いていた。
私は基本的に泣かない。感動系でも、誰かがいると泣けない。悔しい時か誰か大切な人が亡くなった時にしか泣かないんだけど、この時はアイドルとして大切な人である推しが葬り去られたような気がして、涙が止まらなかった。
ただどんなに辛くても、悲しくても、生きるために働かなくてはいけない。オタクである前に人間としての生活がある。まぁみんなそうなんだけど、、。この時心の底から脱退休暇とか欲しくなった。
この推しは今、また表舞台に戻ってきてソロとして活動している。もちろん今でも大好きだし、応援しているし、不動の一位というか、宇宙一のアイドルで自慢の推しだと思っている。
正直言うと、また元のグループでみんなと一緒に活動してほしい。けれど傷ついたり、心ない言葉に晒されたり、いろんな苦しいことがまたあるかもしれない芸能界に戻ってきてくれた。また名前を呼べること、これからもこの人のファンだと言えること、歌声を聴けること、スポットライトに照らされて踊る姿を見れること。その全てがもう二度と無理かもしれないと思っていたから。しばらくは欲張らず、いろんな形でオタクに愛や感謝を示し、惜しみなく与えてくれる推しを噛み締めたい。
年が明けて春が来た頃、その推しとのオンラインイベントが当たった。画面越しで2分間、1:1で話せるトークイベント。めちゃくちゃ嬉しかったし、引くほど号泣した。私って嬉しくて泣く人間だったんだ、、ってびっくりしたのを覚えている。
ただこの時、既に私の中でSixTONESという存在が大きくなっていた。
イベント前日もすごく嬉しいし、吐きそうなほど緊張しているはずなのに、その日SちゃんとしたLINEを遡って読んだらびっくり。推しの話と同時に末ズの話をしていた。おかしい、宇宙一のアイドルで泣くほど嬉しい推しとの会話を明日に控えてるはずなのにおかしい。
「遂に明日じゃん、実感なさすぎてやばい」みたいな会話の次に「慎太郎くんすきじゃん!!」「おジェスってええな、」って、、実感なさすぎるにも程がある。
おジェスはジェシーくんのことをノリで友達と呼んでいるもので、ルイス呼びになる時もある。私の中ではどうしてもルイスがついてた時代の印象が強いし、あとはただ単にルイスジェシーって言いたいだけ。なんかいいじゃん。呼びたくなるんだよね、ルイスジェシーって。あと森本慎太郎くんのことは後にモリ呼びになった。失礼かな?と思ったりもするけど許してほしい、だって呼びやすかったんだもん。元々私は慎太郎くん!みたいな呼び方するタイプのオタクじゃないので、、本人が私の書いているこの文章読みませんように、、。
しかもなぜかSnow Manの渡辺翔太くんが全身脱毛してる話題に食いついて「え、とぅるとぅる?まじで?」って言ってて。なんか本当に、あの、もっと緊張感待って?
イベントはすごく楽しくて、たくさん緊張もして、声は裏返るわ、推しの言うことやること全部がたまらなくて後ろにのけぞるわ、とんでもなく気持ち悪いオタク全開のまま無事に終わった。
その熱量のまま友達から来てたLINEを返しながら、ここでふと、なんとなくだけど「あぁ、終わったなぁ」と思ってしまった。この終わったというのはイベントを終えた感想もあるけど、自分の中で一区切りついたなぁという感覚に近くて。あなたのことが大好きだよという気持ちを、自分なりの言葉にして推しに伝えられたことで、沸騰に近いモチベーションが予熱のようなものに変わった瞬間だった。
沼を変わるタイミングは今までこの流れが多かったから、こんなに大好きな推しから手を引く日が来るなんて、、と思ったけど、それから約半年経った今もオタクをしているから「これが安定期的なもんか、」って考えたりしてる。
多感な年頃に私はリアコという形の恋をしたからだろうか。私は誰かを好きになる時も、誰かを推している時でも、常に思っていることがある。それは例えば1ヶ月後だったり3ヶ月後、あるいは1年後にその人を好きだという保証もないし約束もできないという思考。
もちろん気持ち的にはずっと大好きだし、推していたいし、ずっとこの気持ちが続いたらいいなとは思う。
頭ではそう考えていても、人の心というものは移ろいやすい。女心と秋の空、なんて昔の人は上手いこと言ったもんだ。それだけ変わりやすく、先が読めないんだろうな。だって永遠を誓って結婚しても離婚するじゃない、人間という生き物は。
冷めてるのかなって思ったりもする。昔ほどではないけど、愛してるって言葉も、ずっと一緒とか、永遠にとか、そういう不確かな約束も好きじゃないし得意じゃない。だって守れなかったら嘘になるじゃん。嘘つきたくないじゃん。私は守れる約束しかしたくない。
こんな私も結婚願望はある。なんだか矛盾してるなぁ。
長くなるどころか、結局ずっとだらだらと、、。
この推しという存在が、それだけ私にとって特別な存在ということなんだと思う。だからってSixTONESは違うのかというとそれはまた別で、、まだ本格的に沼堕ちして1年も経っていないので、、これからどうなるかは私にも分からないとしか言いようがない。
ちなみにこの推しは異国の方なので、息を吐くように愛してると浴びせてくれて、愛してるを浴びたい人だ。オタクとして浴びる「愛してる」も、オタクとして浴びせる「愛してる」も、私には丁度いいし心地いい。
それは多分、責任が伴わないからだろうなと思う。別に私1人に向けられたものじゃないから、どこか分散される気がして。それでライトに捉えられるからだろうなぁとか思ったり。それが嫌な人もいるんだろうけど。